活性の火爆誕 総合調整担当かく語りき
[志方光徳 著]
楽譜も読めない筆者(志方光徳)が活性の火に参画するに至ったきっかけは、実行委員長 杉村原生からのちょっとした声掛けに端を発する。
筆者は約150年続いた老舗写真屋に生まれ、商店街育ちだったお陰で、地元の政官財に多少の知り合いがあり、且つ2013年の夏の終わり当時、筆者は苫小牧に3つある商店街振興組合の中で最古の歴史を誇る苫小牧駅前通り商店街振興組合の青年部の青年部長の地位にあった。
「志方さん、今度駅前でちょっと音出すイベントやりたいんですけど、顔広そうなので、少し手伝って貰えないですか。」
商店街組織の全道大会というなんだかよくわからないイベントに、当時まだ商店街の新参者であった杉村原生を無理やり引っ張り出して手伝って貰った直後だったため、多少の後ろめたさと頼られて悪い気もしなかったことから、一も二も無く快諾した。
活性の火プロジェクトが動き出した瞬間であった。
もっとも、この感動的瞬間においては、駅前の広場にビールケースをひっくり返してコンパネかなんかを貼ったようなステージで、素人バンドがちょっと演奏する町内会イベント程度のものを想像していたのだが、次第に杉村原生からもたらされる情報で、少しずつ明らかになるイベント概要を聞くにつけ、規模感の齟齬が解消されてゆくなかで、筆者の退路は完全に断たれていくのを感じた。
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若干、エピソードが脇道に逸れることをお許し頂きたい。
「志方さん、役職は何が良いですか。副実行委員長とかでいいですか。」
活性の火が段々と具体化していく中で、確か2013年の暮れあたりだったと思うが、杉村が筆者にこう尋ねた時、「そ、総合調整担当とかでいいんじゃないでしょうか」と小さく引き攣った笑顔で返したような気がする。
というのも、既に地元にお歴々に話を通して、活性の火をやりたい理由と概要を説明して回った後だったため、仮にこの斬新過ぎる試みが大コケした時に関係各所に謝って回る役になるのは目に見えていたので、実質的に副実行委員長職だとしても、正式な役職としてその大任は避けたい保身の気持ちも十分にあったことは否定しないが、どちらかと言えば、フェスどころかライブすら見たこともなく、おおよそクリエイティビティと呼ばれるものを持ち合わせない自身がその職位に就くのはいささか憚られたと言うのが最も大きな理由である。
ともあれ、総合調整担当がどんな仕事かと言えば、筆者自身も明確な答えを持ち合わせていないし、現在においても正直あまりよくわかっていない。
演者の選定と音響技術に関する事項以外のすべてに関し、実行委員長を補佐し、助言し、代行する何でも屋である。
杉村がやりたい活性の火を実現させるために、人と人、組織と組織を結び、言葉を尽くして交渉し、頭を下げ、土下座をし、法令を捏ねくり回し、書類を作り、疲れて判断力が鈍って来た杉村を励まし、情報を整理し可視化して安心させて、考慮漏れがあれば進言する役目である。副総理、副大統領と言うより、官房長官や首席補佐官に近い業務内容である。
本人的には「総合調整担当」という役職を気に入っているのだが、近年は市外の交渉相手も増えたことから、便宜的に副実行委員長や事務局長の役職を用いる機会も増えてきた。
現在の役職は、副実行委員長 事務局長(渉外・法務統括 / 総合調整担当)である。なんだか、役職ばかり大仰になるが、やることはスタートアップの時から変わらず、杉村原生のサポートである。
総合調整担当には誰も興味を持たないだろうから、せめてブログを投稿するからには、一言二言書き連ねてやろうと思っていた。
樫村事務局次長から「自分、実行委員になるまで、志方さんが何やってる人なのか全然わかってなかったです。」と言われた時には「志方本人は未だに何やってる人なのは全然わかってないです」と答えたのは謙遜や照れ隠しだけではなく、正直自分が職務分掌を把握しきれていないことの裏返しでもあった。
総合調整担当の話の尺を取り過ぎてしまった。
こんな人間が総合調整担当をやっているから、活性の火は可愛げ溢れるフェスなのである。
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さて、では、実際に、初回の活性の火’14をご覧いただこう。
何が「駅前の広場にビールケースをひっくり返してコンパネかなんかを貼ったようなステージで、素人バンドがちょっと演奏する町内会イベント程度」のものか!!
大賑わいではないか!!
こちらは、前日金曜日の設営シーンである。
たしか、ステージまわりは24時過ぎまで調整が続いたはずである。
そして、
駅に設置したモニュメントは幾分ロック過ぎていたが、今となっては青春の瞑想みたいでいささかの寂寞すら感じる懐かしさである。